SHORAKUSHA

終わりがないフィルムのように続く、ある風景の備忘録

まちから余白と無駄を救い出す旅路に出よう

ひさしぶりの更新は、少しカタい話というか……更新しない間に「まちを見る視点」や「琴線に響くモノ」に対する解像度がかなり上がってきたので、今後のこのブログの方向性を示していくのを兼ねて、ここに書き記しておこうかなと思います。

 

共通するのは「現実と虚構(理想)のかかわり」というコト

わたしが好きなものといえば、旅行(まちを見て、訪ねること)・商業施設・乗り物・アニメ……などがあります。もちろんそれは以前からわたしも理解…というか、当然自覚しているところです。しかし、以前からわたしにはなんとも解釈できない疑問がありました。

それはこれらの趣味に共通する「わたしの琴線」ってドコ…?ということです。

もちろん、旅行の対象であるまちという空間と商業施設、乗り物は隣接領域というか、互いにかかわりあい、構成するものですからまぁ興味が及んでいくことはわかります。しかしアニメ……?

ということで、アニメの中でもどういったものが好きなのかということを考えてみることにします。具体的なことを書き出すと終わらないのでここでは省略しますが、するとわたしは「アニメというフィクションの中に妥当性を見出したいと思っている」ということが分かってきました。我ながらなんて倒錯してるんだ……

 続けて、今度はまちという空間や商業施設に対する興味を深堀りしていこうと思います。わたしはまちのどういう空間に魅力を感じるのか?どういった商業施設が好きなのか?ということです。これは割とはっきり説明できます。まちに関しては「まちを形作る作り手の理想が現実的な営みの中で垣間見える空間」あるいは「それが現実との葛藤の中で"中和"されていった空間」が好きです。例えばゴミ箱として使われるはずだったのに植栽の受け皿と化してしまった多摩ニュータウンの事例、全国にごろごろしているテクノポリス法絡みの開発途上のままの新都市計画(吉備高原都市とか…)などであります。商業施設でいえば「バブル期の建築」「開業から時間のたったモールの空間」あるいは「そごう」これにつきます。

残る乗り物については結構難しいところなのですが、都市部の交通に関しては「地元住民になりきったロールプレイングができる」点、ローカル線やいわゆる免許維持路線と言われるような本数が極端に少ない路線に対しては「需要や経費(採算性)を無視したようなフィクショナルなものが現実に存在し、体験できる」点に魅力を感じていると思います。

 

以上、自分の「興味の理由」を整理していくと2つの軸が見えてきます。それは「ノンフィクション(現実)」と「フィクション(虚構あるいは理想)」のかかわりということです。もう少し詳しく言うと、現実が虚構に侵食されている瞬間、あるいは理想が現実に侵食されている瞬間が好きなのではないか?ということが見えてきます。

 

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多摩ニュータウンではゴミ箱も緑化する

エモーションは綻びから生まれる

こうした空間はおおむね建築や土木構造物(インフラ)といった、誰かが「こう使ってほしいという意志」をもって作り上げた半恒久的なハードと、実際に利用する市民の利便と行動といったソフトの摩擦から起こることが多いです。簡単に言えば作られたハードが、それを利用する人間にとって必ずしも自然に溶け込むものでなかった。そんな場合です。しかし人間というのはたくましいもので、一つの半恒久的な環境に対して、十人が十色の価値を見出したりします。あるいは少しだけ手を加えたりしてそれっぽく使えるようにしてしまう。その時人間は半恒久的なはずのハードに対し、設計思想の綻びを見出すのです。

それは一種ハードの力がソフトの力に敗北した瞬間でもあります。それは建築家や都市計画の実務者からすればあまり気分のいいことではないかもしれませんが、それは都市の冗長性と言い換えることもできます。人間は様々な空間に多様な価値を見出すことができるのです。

しかし、近年建築やインフラの力がかなり強くなってきているように感じます。わかりやすく言うと「目的や役割がはっきりと明確化され、それ以外の利用を想定しづらいもの」が増えてきているように思うのです。 少しケンカ腰で言えば「インフラの目的や役割に人間が合わせなさい」とでも言いたげなものが増えているということです。その目的にそぐわなければ使えない、かかわることもできないような、どこか排他的なものが増えているようにも思います。

ただ、建築やインフラはどのようにでも使えるようにしなさいとか人間にやさしくありなさいという主張も一部ではありますが、個人的にはこれも違うように思います。どっちが正しい、どっちが悪いというわけではなく、これはバランスの問題です。建築に意思や目的・役割は担わせていい、ただ建築はもう少し「ゆるく」「ふまじめ」でいいとも同時に思うのです。最近立ち上がる建築やインフラは、なんだか融通が利かないけど勉強はできる優等生みたいな印象を受けます。

 

無駄はいけないことか…?ということ

ではどうしてそんなことになってきているのでしょうか。その理由の一つの社会の閉塞感や不景気感にあるように思います。企業体というのは「納得できる説明」がないと動き出せないものです。よりミクロな単位に落としてみても、上司は部下に「納得のいく説明」を求めます。これはロジックに関してもそうですが、採算や利益といったものに対してもそうです。利益を追求する株式会社である以上、収支計画や売上予測は厳しく精査され、検討の場で何度も叩かれ、甘さを指摘され、イジられるものです。「渦森が幸せになるから1000億円をかけて浜松に松菱百貨店を復活させよう」という要求や提案は通らないハズです。

そうすると結果的にどういったものが社会活動に表出してくるのかというと、「正しさ」「(大多数が)納得のいくもの」、そして「儲かるもの」になってくるわけです。

そしてここからが重要なのですが、これは景気が悪化したり、企業が利益を確保できなくなってくると、加速度的に「正しい」「納得のいく」「儲かる」ものが増えてくることになります。それは「投資に対して慎重になってきた」、つまりより事業の成功に対して精度の高い計画を求めるようになるからです。

こうした過程で、社会全体が「ゆるさ」「適度な適当さ」を許容しない社会になってきたのです。

 

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浜松の松菱復活しろ………!

日本から消えようとしているまちの「余裕」と「遊び」を拾い上げたい

でも、わたしはその「ゆるさ」から理想に現実がねじ込む余地を見出す葛藤が大好きなわけです。つまり、昨今の情勢これは大変な危機であるわけです。いやそれは主観的な話なのでもう少しだけ客観性のある危機感の根拠を述べていくと、そうした「ゆるさ」と「適度な雑さ」が許容されない社会の行く末が何かというと、とあるモノが決められた目的以外の役割を担ったりすることが許されない「冗長性のない世界」の姿です。

全てのモノには意味が与えられ、無意味なものは有り得ない。説明のつかないものはなく、すべてのものに決まった理解と解釈がある、そんな窮屈な世界になりかけている。実はこれは卵が先か鶏が先か議論になりますが、社会の閉塞感の理由の一つはこれだと思います。余白や余地、遊びを許容しない社会になりつつある気がしています。

それはまちに関しても同様です。現代に作られ、マネジメントされる様々な都市空間のほぼ全てには事業主の「狙い」と「採算」のみがあり、「遊び」や「余白」がねじ込む余地はあまりない。まちの空間のマネジメントはまだしも、我々人間のライフスタイルまで「狙われ」、マネジメントされつつあるのです。

わたしはこうした時代に対して危機感を感じ、そして反抗を試みるのです。「無駄」は都市の冗長性であります。多様性を受容し、様々な人々の需要を満たすという一種都市の都市たる使命を全うするためには、マイノリティの需要、多数決の世界で言えば「無駄」になってしまうものも残していかなければいけないのではないかと考えるのです。そしてわたしはそれを「そごうの川の流れる名店食堂街」や「なんで営業しているのかわからないGMSの上層階」、「路線バスの免許維持路線」あるいは一部の大都市圏を除けば形態そのものが崩壊の兆しを見せている「百貨店」や「路線バス」そのものにも見出す。そんなワケです。

日本は日に日に余裕がなくなり、効率能率生産性が叫ばれるようになっています。しかしそれを面と向かって言うことだけは憚られるから、「ゆとり」とか「オープンエア」とか「ナチュラル」といった魔法をかけてそうした空間が作られています。しかしこういった空間は裏を返せば容積率を突破するための公開空地だったり、事業主に何らかのメリットが認められるから行っていることが現代では大半です。いったいそんな時代とは真っ向に対抗する非効率非生産性無駄複雑怪奇摩訶不思議意味不明トマソンが発見され、維持されてこそ都市の「余裕」であり、「懐の深さ」なのではないか?と思ったりもするのです。

 

 

だからわたしは、令和の都市から失われかけている、「無駄」と「余裕」を取り戻す物語をはじめようと思う。

それが楽しいし、それが自分の好きな未来につながっていると信じているから。